泣く赤ちゃんを笑わすためには、一度、無に返さなければならない
笑う赤ちゃん
息子Aは生まれて3カ月ほどになるが、最近よく笑う。
生後2カ月ぐらいまでは、この世の悲しみをすべて背負っているのではないかというぐらい陰鬱な表情を常に浮かべていたのだけど、最近は、何か楽しいことがあると「はふーん」と力の抜けた声を出しながら喜びの表情を浮かべるようになった。
また、こちらをじっと見ることも増えてきた。
生後間もないころは、常に虚空を見つめ続けていたのだけど、最近は少しずつ目が見えてきたのか、私や妻の顔をじっと見つめたり、目で追いかけてくることが多い。
それまでは、私が歌おうが踊ろうが息子Aの反応は芳しくなく、ハイテンションになっているこちらがスベったような空気になり、気恥ずかしくなることが多かったのだけど、「ボケに対して反応がある」ということが、こんなにも嬉しいことなのか、と実感する日々である。
泣いた赤ちゃんに有効な手段=DAKKO
ただ、息子Aが一度泣いてしまうと、そこから笑いに繋げるのはいささか困難になる。
私の観察によると、息子Aの精神状態には、泣く→無(む)→笑うの三段階があって、一度「泣く」になってしまったら「無」を経ないと「笑う」の境地には至らない(ただし、逆に「笑う」から「泣く」へ一足飛びに到達することはあるのだから理不尽なものである)。
泣いた息子Aを無に返すために最も有効な手段は、当然ながらDAKKOである。
特に息子Aが好むのは縦DAKKOだ。
通常のDAKKOをしても、息子Aはイヤンイヤンをするように体をねじらせながら泣き続け、始末に負えなくなることが多い。
縦DAKKOをすれば、それまでむせび泣いていた息子Aが急にしおらしくなって、こちらに体を預けてくるのが、なんとも愛らしい。ただ、最近は息子Aの顔に乳児湿疹が現れているのだが、体を預けるついでとばかりに、私の上着の布地に顔をこすりつけて、顔を掻こうとするあたり、もしかしたらコイツは甘えているフリをして、ただ顔がかゆいだけなんじゃないかという疑念も捨てきれない。
妻の場合は、今一つ縦DAKKOの要領が得られないようで、必然的にギャンギャンと泣き続ける状態、略してギャン泣き時の息子Aを無に返す役割は、父である私に委ねられることが多い。
私があやした方が早いからといって、息子Aを泣き止ませる技術を磨かずして、泣いたら即、私に任せるという妻の姿勢はどうかと思うが、普段私が仕事に出ている間、妻が息子Aの面倒を見てくれている手前、そうも言えん。
赤ちゃんを笑かすいくつかの方法
10分ほど縦DAKKOをして、息子Aが無の状態になると、そこからようやく笑かしにかかることができる態勢になる。
息子Aを笑わせるための手段はいくつかあって
- 私が「ふーー」などと奇声を発しながら、息子Aの首・ほっぺた・耳などを撫でる
- 私が「パタパター」などと奇声を発しながら、息子Aの両手を鳥の翼のようにはばたかせる
- 私が「ツンツンツーン」などと奇声を発しながら、息子Aの脇腹のあたりを突っつく
- 私が「プルプルーン」などと奇声を発しながら、息子Aの両足を上下左右に動かす
といったあたりが、定番だ。
お分かりのように、基本的に私は奇声を発している。
キリンのソフィーで喜ぶ息子A
また、飛び道具的におもちゃを使用することもある。
フランスに住んでいる知人から、お腹のあたりを握れば「ぴっぷー」という音が鳴る、ソフィーというキリンの人形をお祝いにもらった。
なんでも、フランスの赤ちゃんは皆これを持たされるらしいのだが、私はあまり詳しくないので分からん。
息子Aはこのソフィーが大のお気に入りのようで、私が目の前にソフィーを持ってきて「ぴっぷー」と鳴らせば、ぱっと顔が明るくなり、ソフィーでほっぺたを突っつきながら「ぴっぷぴっぷぴっぷー」と鳴らせば、「はふーん」という、例の力の抜けた笑い声を出す。
ソフィーの威力は絶大で、これを使えばほぼ100発100中で息子Aは喜ぶ。
実は最初に見たときは内心気にくわなかった、ソフィーの人を見下したような笑顔も、よくよく見れば「僕の手にかかれば赤ちゃんを泣きやませるなんて簡単さ」という、余裕の表れのように感じられるのだから、人の心というのは勝手なものだ。
必死なソフィーと泣きの赤ちゃん
ただ、そんなソフィーをもってしても、「泣き」状態の息子Aを一気に「笑い」に変えることは難しい。
ソフィーならばと思い、何度か試みたことがあったのだが、ギャン泣きする息子Aに対して「ぴっぷ!ぴっぷ!ぴっぷ!ぴっぷ!」と音を鳴らし続けるソフィーは、それまでの余裕の欠片すらも感じさせず、なんだか必死さが顔ににじみ出ているようにすら見える。人の心というのは勝手なものだ。
泣くのが赤ちゃんの仕事、とはよく言ったものだが、どうせなら泣くよりも笑っている時間を少しでも多く過ごしてもらいたいものである。
息子Aの観察は続く。