療育diary|発達障害の息子との暮らし

発達障害グレーゾーンの息子6歳との毎日についてのこと

療育に3年通ったけど息子は健常児だった(と我が家は判断した)

私の息子はいわゆる発達障害のグレーゾーンというカテゴライズの中で生活しています。

3歳ごろに周囲からの助言もあり療育に通い出し、なんだかんだあって今はなんとか特別な困り事はなく暮らせている状態です。今回は

・「発達障害」「グレーゾーン」「定型発達(健常児)」の境目の曖昧さ
・医師や療育の先生ですら断言できないもどかしさ
・私はどういうマインドでいるのがいいという結論になったか。

みたいな話ができればと思います。

 

発達障害グレーゾーンっていう曖昧な表現

「グレーゾーン」っていう言葉は、ものすごく解釈の幅があって難しいと感じることが多くあります。私の認識だと「発達に凸凹があるものの医師から発達障害の診断がおりるレベルではない」状態のことだと思っています。

また、「診断がおりるレベルではない」という理由も二つに分かれる。それは

1.日常生活の中の困りがそれほど大きくないから
2.年齢的に伸びる可能性を考えるとまだ判断がつかないから

の二つです。

まず、2は素人の考えでいっても理屈としてはそりゃそうですよね。例えば2歳の子供が6歳や10歳のときに、何が得意で何が苦手かなんて予測は難しいです。

どちらかといえば、私たち親が悩まされるのは1の方じゃないでしょうか。

「困りがそれほど大きくない」と言っても、その中でも色々あるわけですね。

 

親の考え方ひとつで変わる発達のカテゴライズ

例えば自分の子供が何か苦手なことがあったとして、それを親が「確かに苦手だけど、人間誰しも得手不得手があるから、これも一つの個性と捉えられる」と考えられる場合もあれば「これは個性の範囲に収まらないぐらい苦手だから発達障害じゃないか」と考えられる場合。

で、特にグレーゾーンの子の場合は結局医師も、家庭がどういう方針で、子供をどうカテゴライズしてあげる方がいいと考えているのか。を、参考にしているところがあって、結局、診断を下すかどうかは親の意向次第なところもあります。

親が「うちの子の困り感が大きいから発達障害児としてサポートを受けた方が生きやすくなる」と思えばそうしてもらうし、「いや、総合的に考えれば診断なしのまま生活をする方がメリットが大きい」と考えれば、診断はおりないようにしてもらう。と言った感じ。

※ただ、このあたりは医師によっても考えが違うはずです。親の意見はあまり参考にせず、お医者さん自身の判断で診断をズバっと下す先生もいるかと思います。そう言う意味で「どの先生に診てもらうか」によってその後の運命がかなり変わるわけで、元々医療ってそんなものかもしれないけど、こと子どもの発達の分野に限れば、その後の人生への影響が大きすぎて、なんか曖昧で頼りないシステムだなと素人的には感じます。

 

子供の困り感を親がどう判断するか?心配しすぎも楽観的すぎもダメかも

あとは「自分の子供がどれぐらい困っているかどうか」が、親でも判断がつかないことがあります。

例えば、自分自身の子供時代を思い返したときに、私は友達の輪に入りづらいタイプの子供だったと思います。別に他の子と全く交流できないわけじゃないけど、休み時間もなんとなく大勢で外遊びするのが苦手で、手持ち無沙汰に机に座って過ごしたり本を読んで過ごしたり。でも、当時の自分にとってはそれが普通だったし、別に仲間外れにされてたわけでも、寂しくもなかった。

3年生ぐらいから仲の良い友達もでき、そこから狭く深い付き合いを好み、学生時代のアルバイトで色々な人との交流機会が増えて社交性が増し、大人になった今まで人間関係で特に困ったことはありません。仕事もチームで進めるタイプの仕事や、部下のマネジメントなど一通りそれなりにやってきました。

そう考えたときに、仮に友達と遊ぶより一人遊びが好きなお子さんがいたとして、別に本人は困ってないんじゃないかと思ったりもします。これが、例えば幼稚園で集団で何かしないといけないときにずっと一人だけ別の行動をしてしまうとかになると話が変わってくるわけですが、そこまで目立った困り感は表出しない。となると、これって「困ってる」になるんでしょうか?

楽観的に考えすぎてあとあと困り感が大きくなってしまう場合もあるでしょうし、悲観的に考えすぎたけど結局、健常児として普通に暮らせてます。と言うパターンもあるでしょう。結局、「答えは誰にもわからん」となってしまうわけで、このモヤモヤを抱えながら生きるのが正直しんどい!と思ったりもします。意外と子供自身はそんな心配なんて気にせずに毎日ご機嫌に暮らしてたりするんですけどね 笑

 

特定の分野や環境によって子供の困り感が変わるのも余計に複雑

グレーゾーンであれ発達障害児であれ、当然24時間365日困ってるわけではありません。

「Aと言うスキルに関してはそれほど困らない(苦手ではない)けどBと言うスキルではとても困る(めちゃくちゃ苦手)」だったり、「○○な環境では困らないけど××な環境では困る」だったり。

でも、それ以外の場合は特に困ることなく過ごせているとしたら、この子はどういうカテゴライズになるでしょうか。

 

もう少し話をイメージしやすくするために、具体例を挙げて考えてみます。例えば、コミュニケーションは問題ないけど運動面の発達が心配な子がいたとします。

体育でやるような粗大運動であれば小学生だけど、鉄棒ができないとか、片足立ちが上手にできないとか、足が遅いとか。運動会でみんなで体操をしても上手にポーズを取れなかったりしたとします。

手先を使う微細運動であれば、お箸を使ってもすぐにおかずを落としてしまったり、名札の安全ピンを止められないなどが考えられます。

この場合に、日常生活に支障が出る困りってどれでしょうか?

まず、別に足が遅かろうが鉄棒ができなかろうが、体育の成績が1でもなんも困らないですよね。だって大人になってから運動する機会なんて私もありませんから。

手先の方はどうでしょうか?こっちは、より日常生活で困り感が出やすいかもしれません。で、その際に「合理的配慮」という考えが必要になります。学校の先生と相談して、お箸が使いづらいなら補助箸でもいいとするとか、安全ピンが止められないならマグネットをつけましょう。などです。

そのぐらいの配慮さえあれば、それ以外は特に問題なく普通に暮らせるとなった場合、この子は困っている=発達障害と言えるでしょうか?まあ、実際は合理的配慮が必要なぐらい何らかの苦手があるなら、それ以外にも何か困りごとがある場合が多いのでしょうが、あくまで極端な例として挙げました。

もっと言えば、親も周囲も何も心配することなくずっと健常児として過ごしてきた子どもであっても、得意なことと苦手なことは普通あるわけです。

 

運動がめちゃくちゃ好きで少年サッカーのエースの子がいたとして、勉強はめっぽう苦手で、国語や算数の時間が毎日苦痛で仕方ない場合。

内気だけどとても仲の良い友達といつも二人組でばかり行動してる子がいたとして、授業でグループワーク的なことをする時に他の子と一言も喋れずに悪目立ちしてしまった場合。

この時も子供達は困っているはずですが、ただの個性として捉えられる、または子供自身が何かを親に伝えない限りは一生気づかれないまま終わることもあるはずです。

 

実際は健常児〜グレーゾーン〜発達障害という3つの間に無数の段階が存在する

色々とまとまりなく書きましたが、それなりの期間息子と向き合った結果、私なりに「こういうことかな」と思ったことを図を使って説明します。

まずは子供の発達のカテゴライズを3つに分けた図

 

一般的にはこう考えられると思います。でも、この3つのカテゴライズの明確な線引きって存在しないのかなと思います。つまり、

 

実際はこういうことかと。つまり、この3つの間の子も沢山存在すると。

こうなった時に、例えば左から3番目の「健常児とされてるけどグレーゾーンぎりぎり」という子供と4番目の「グレーゾーン」とされている子供の違いは、めちゃくちゃわずかな差なわけで、いつ、どんな分野を、どんな場面で、誰が見るか?によって判断が別れるはずです。

さらに言えば、左から2番目や3番目であってもグレーゾーンと考える人もいれば、4番目以降がグレーゾーンと考える人もいるはず。もはや、明確な基準なんて存在しないのだと思います。(うちの子は、この範囲かと思っています)。

 

結局は親がどう考えて生きていくか?という考えにたどり着く

例えば同じように医師の判断が必要な事柄であっても「骨折」なら明確に基準があるわけですね。骨に物理的な損傷があるとかなんとか。もしかしたら、大人のメンタルヘルスとかもそうかもですが、発達障害も本人が(家族が)どう感じるかによって、判断が変わってしまいます。

結局、それらをすべて総合すると「家庭の方針」となるわけです。え?結局お医者さんの言ってることと一緒じゃん。やっぱりお医者さんって正しい。

そこでこの投稿のタイトルに戻ると、うちの息子は療育に通ったけど、結局健常児だった。と私は解釈しています。この考え方は賛否両論あると思います。でも、うちはそう考えました。

確かに苦手なことはあります。人の話を聞いてるときに気が散りがちとか、感覚過敏気味で嫌がる生地の服があるとか。でも、息子よりももっと集中を欠きがちな子供はクラスの中にあと何人かはいる。おそらく、集団生活の中で8割ぐらいの時間は問題なくできていて、たまに困る瞬間が表出する。

その残り2割の時間を問題と感じて、特別な支援をした方がいいと考える家庭もあるとは思いますが、うちの家庭では息子のこれからの可能性に期待しようかなと思っています。やっぱり子供ってたまに親をびっくりさせてくれるような成長をする時があって。そこに過度に期待するわけではないけれど、私は息子の生きる力を信じてあげたいと思っています。

 

ネット上の当たり障りのない意見の価値って?

余談ですが、団体や企業がネットで発信するときは誤解や炎上を恐れて、当たり障りのない書き方になったり、1%しかないリスクがさも100%かのような書き方になりがちです。特に子どもの発達など医療分野に関わるような話の場合は余計にそうです。

例えばよくあるのがチェックリスト。

「偏食がある」「大きな音が嫌い」「思い通りにならないと癇癪を起こす」とかいくつかあって、当てはまったら発達障害ですとか。いや、それほとんどの子供がそうだよって言うやつ。

百歩譲ってお医者さんがそこから何かを判断するならまだしも、ただのママ向けのWebメディアとかが適当にググって適当に書いてるの見ると、PV欲しさにふざけんな。マジで潰れろって思いますね 笑 その「間違ってはないけど当てはまらない人がいっぱいいる情報」に、日本中の親がどれだけ悩まされているか。

バイバイを逆さにすると発達障害とか、あれどう言うつもりで書いてるんでしょうね?

つまり、あの手のやつはあまり真に受けなくていいと思います。専門家に相談するか、自分の判断基準を磨いた方がいいです。

 

マインドが変われば「苦手をなくす努力」から「得意を伸ばす努力」に変わって子育てが楽になる

散々迷って今の考えになってからは、息子をどう育てればいいのかの考えが変わったように思います。

つまり、療育でどう発達支援をするかを考えていた頃は「息子の苦手をどうなくせるのか?」に注力していました。ほとんどの療育ってそういう場所だからです。

でも、今は「得意なことや好きなことをどう伸ばしてあげられるか」を考えています。小学校入学後は放課後等デイサービスには通わせず、通常の習い事の中で息子の成長につながりそうなこと、あるいは息子の得意や好きを伸ばしてあげることをできたらと思っています。

もちろん、これから今よりも困り感が大きくなれば、その考えはアップデートすべきという心の準備はしておきつつですが、今の気分はそんな感じです。

うちの家庭の方針が正しいのかどうかはわかりませんが、同じような状況のご家庭に何か参考になればいいと思います。

 

発達障害グレーゾーンの息子の話をこのブログでしていこうと思います

こんにちは。

これを書いているラムウこと私には6歳の息子がいます。元々、このブログは息子が生まれたときに赤ちゃんのかわいさを書き留めたいなと思って作ったものでした。

ただ、元来の筆無精のおかげで数記事を作ったところで更新は停止。そのまま5年以上が放置されていました。

それがなんでまた再開しようと思ったかというと。

表題のとおり現在息子は発達障害のグレーゾーンというカテゴライズの中で生活しています。私自身もそれまで想像もしていなかった「障害児の息子の親になる」という立場になってから数年が経ちました。

ある程度気持ちや生活の折り合いがついてきた今のタイミングで、同じ立場の他の親御さんや、これから同じ立場になるかもしれない人たちに何か発信できないかなと思いました。

 

今回は最初なので、まずは息子のこれまでの経緯について書こうかなと思います。数年前のことを思い出しながら書いているので、時系列など細部が多少間違っている可能性がありますが、ご了承ください。

 

発達障害を疑うきっかけは保育園の先生からの指摘

息子は赤ちゃんの頃からあまり手が掛かるタイプではありませんでした。うちの家は都内で夫婦共働き。1歳から息子を保育園に預けていました。

保育園の登園渋りなどもなく、少し言葉の発達などはゆっくりでしたが、反面文字や数字の認識などの発達は早く、特に親として子どもの発達に対して大きく心配はしてなかったです。しかし、3歳になった頃に担任の先生から「伝えたいことがある」と相談を受けました。

内容としては以下のようなものでした。


・集団生活の中で息子くんの行動に少し違和感を感じることがある。
・巡回に来る市の保健師さんも同様のことを言っている。

具体的には、

・呼びかけに対する反応の薄さ。
・前で話す先生への注目のできなさ
・発語の少なさ

などです。

とはいえ、3歳の段階では発達のスピードに差があることは当然なので、現段階で発達障害を疑っているわけではない。「もしお母さんお父さんが心配なら、一度市の支援センターに相談してみては?」「その結果、定型発達だという話になれば安心できると思う」というニュアンスでした。

 

支援員さんとの面談で療育の必要性について助言をもらう

市の支援センターにいき、1時間ほど支援員さんとの面談をしました。

応対してくれたのは二人の支援員さん。両親が一人からヒアリングを受けている間、息子はもう一人の支援員さんと別の部屋へ。「普段の様子について両親が感じていること」「息子が支援員さんとおもちゃで遊ぶ様子や、質問への受け答え」の両面から判断をするとのことでした。

私たち両親は、判断がつかないというのが正直なところでした。

息子の個性と思っていた部分が障害ではないかと言われたときに、あっさりと認められるはずもなく。かと言って、知識として「大人になってから発達障害だとわかって、もっと早くから療育を受けていればと後悔した」といった話もニュースなどで知っていたので、それなら早めに対処を考えた方が…とも。

 

結果、ここでも少しはっきりとしないニュアンスのことを言われました。

・少し目が合いづらいようには感じる。
・質問に対してある程度の答えは返ってくる。
・一緒に遊ぶことにはあまり興味がなさそう。

→ただ全体を通して3歳だと発達の速度に差があるので、なんとも言えない。

「現時点で息子くん自身の発達特性に凸凹があるのか、ただの個性なのかはわからない」「ただし、それがどうあれ早くから療育を受けることは子供にとって確実にプラス」なので、検討してみては?という感じでした。

その言葉が私たちには響いて、療育に通わせることを決意しました。

ただ、この時点では将来への不安の方がずっと強かったように思います。障害児育児というものを全く知らなかったため、あまりに想像がつかなすぎる。だからこそ、悪い方の想像も極端なところまでいってしまう。そんな感じでした。

正直、夫婦揃ってメンタルがかなりまずい状態までいったこともあるのですが、また機会があれば詳しく書けたらと思います。

 

初めての療育

そこからは息子くんが通う療育施設(正式には「児童発達支援」あるいは略して「児発」と言いますが親は大体「療育」って言ってるはず)を探し始めました。

いま思えば、この時が「子どもの進路を選ぶ」という最初の経験だったように思います。それまで特に習い事をしておらず、保育園に通っていたのみでした。その保育園も、家から一番近いところに通っているだけ。「息子の成長のために合う療育はどこ?」って真剣に考えました。

療育と言っても施設の特色は様々です。我が家は、自転車または電車で30分以内で通える距離であることを必須条件としていましたが、その条件の中でも

・個別療育か集団療育か?
・どこに重点を置いた療育をするのか?
・何曜日に通えるか?

など、考える条件は様々。※療育選びに関しては後日、別の記事で選び方のポイントなどを詳しくまとめたいと思います。

ただ、このあたりは地域によっても差がありそうです。私たちは都内近郊に住んでいるので、施設の数としてはかなりの数があり(それまで全く意識してなかったけど児発や放デイが街のあらゆるところにあったとは)、施設の競争も激しく、特色をそれぞれが出しているのかもしれません。

見学にいきまくったり夫婦で話しまくった結果、

・個別療育で認知能力の向上に力を入れている施設
・集団療育でソーシャルスキル向上に力を入れている施設

の2つに通うことに。日程は平日×1+土日の週3回となり、平日の1日は会社にかけあって時短になりました。(うちは夫婦共働き。それぞれが隔週で時短の日を1日もらうイメージ。コロナ禍でテレワークだったこともあり会社も柔軟に考えてくれました)

 

療育に行かせたメリットと、でもそうでもないかもという気持ち

週3という日程数が多かったのか少なかったのか、良かったのか悪かったのかは、正直今でもわかりません笑

これは綺麗事なしにいうと、現在の息子の成長した部分が「療育に通わせたから」なのか「保育園での生活の中から」なのか「年齢的に自然と成長しただけなのか」など、誰にも判断がつかないからです。

療育に行かせることのメリットがあることは間違いない。でも、ほぼすべての土日を療育に費やして、その分、息子の遊び時間を減らすことのデメリットもあったんじゃないか?とも考えました。

療育で支援員さんの配慮の中、スモールステップの成功体験を積むことは絶対に良いことです。でも、特にグレーゾーンの子の場合は「定型発達の子たちの中にいても普通にできている時もある」ことも事実です。であれば、息子へのハードルを少し上げても良かった可能性もあったのかなとも思います。

例えば、療育に通わせる日程のうちの1日を、集団でおこなうサッカーやダンスなどのスポーツの教室に通う日程に充てるという選択肢や、お受験組に混じって幼児教室に通わせる選択肢もありえたかもしれません。何がベストだったのかは正直今でも分かりません。

 

もしかしたら「あなたの家はグレーゾーンだからそんな呑気なことを言ってられる」という意見もあるかと思いますし、うちにはそんな選択肢なんてなかったよ、と嫌な気持ちになられる方もいらっしゃるかもしれません。

でも、私たちのような「子どもの支援が必要な家庭」という大きなグループの中で、さらに違いを見出して優劣をつけたり敵対するのは本当に意味がないと思っていて。むしろ定型発達の子も含めてすべての子どものあらゆる個性が認められ、自分らしく生きられる世の中こそがゴールだと思っているので、「私は私の経験の中でできることを」「今似た状況にいる誰かに届けばいい」と思って、これを書いています。

 

今でも悩むことはあるけど成長や未来への希望もたくさん

療育に通う中の様子はまたそれぞれ詳しく書くので、そこから現在までの話は、本稿では割愛します。

ということで、療育に通わせて3年ほど経ちました。その間に、息子の得意不得意の傾向も把握し、色々なことと折り合いをつけながら、なんとか小学校では普通級に問題なく通えるんじゃないかという、ある程度の自信を(親も息子も)持てる程度にはなったのかなと思います。

3年間の時間の中で、めちゃくちゃ落ち込んだり、自分たちはよそよりも不幸な家族なんじゃないかなんて思ったりしたこともありました。その時間を経た今は、特別ポジティブでもネガティブでもないフラットな気持ちで日々を過ごせています。

 

最後に総括的なことを、よかったこと、悪かったことに分けて説明します。

まず嬉しい誤算としては「子どもって時として親の想像を越えて成長する」っていうことです。特に5歳〜6歳ぐらいにかけての期間がものすごく成長したように感じます。

元々は、息子が友達と一緒にボールとかで遊んでる姿は見れないのかなあ。でも本人がそれでいいなら、イジメに合うとかでなければそれでもいいのかな、なんて思っていましたが、お友達付き合いもそれなりにはするようになりましたし、それまで全然興味がなく頭足人(頭から手足が生えている人の絵)しか描けなかったのにお絵描きが好きになったり、年相応にアニメやYouTubeを観るようになったり。保育園の年下の子に対して優しい言葉をかけている場面があったり。

最初期に保育園や支援センターで言われた「この年代では成長のスピードに差があるから判断がつかない」の意味が、良い意味で実感できたように感じます。

 

逆に今でも困ることはたくさんあります。息子の話が一方通行なことがあったり、感覚過敏で洋服選びが大変だったり、動くものへの興味が強すぎて集中が逸れたり。

どれも、日常生活の中で小さな困りごとにはなり得る特性です。ただ、その困り感の深さはそこまで深くない(これは保育園、療育、通院先のそれぞれの先生の意見と、夫婦の考えを集約した結果です)。

そう言った特性が表出することがあるけど、おおむね問題なく過ごせている。というレベルでなんとかいけているという感じです。

今は比較的穏やかな状況ですが、小学校で学年が上がるにつれて周囲との差が開く可能性もまだあるわけで、どうなることやらとは思いますし、実際にそうだったというご家庭も多いでしょう。

なので、あくまでうちの場合はそうだったという参考に見ていただければと思います。ネットで子ども発達障害について検索すると、極端に後ろ向きな体験談や、業者の書いた当たり障りのない記事しか出てこないので、私みたいに極端に明るくも暗くもないリアルな体験談を書く人がいてもいいのかな。

そんなことを考えながら、ブログを再開しました。今後、ゆっくりなペースで更新していきたいと思います。

 

うちの赤ちゃんはノマドで時間旅行者

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息子Aにそっくりの赤ちゃんをよく見かける。

こいつは何を言っているんだと思われるかもしれんが、実際に見かける。

#生後3ヶ月といったハッシュタグがついたインスタの投稿に、Youtubeで見た赤ちゃんの動画に、(これは親の欲目というやつかもしれないが)オムツのパッケージに。

なんなら、2週間遅れで生まれた職場の同僚の子供もそっくりだった。

もちろん、そっくりだと思われた赤ちゃん群も、微妙な顔つきや髪質など、息子Aと差異のある部分も多いのだけど、パっと見たときに、直感的に頭が「うちの子や!」と認識してしまう程度には、似ている。

仮にその子たちが、息子Aと同じ衣服を着て、我が家で写真を撮影し、妻に「息子Aの写真だ」と言われたら、私は一切疑わないのではないかと思う。

 

思うに、日本人の両親を持つ赤ちゃん、それも男の子限定となると、大きく分ければ何パターンかの顔に分別されるのではないか。

成長とともに体型や表情に個性が産まれるので、これは新生児特有の分類といえるが。
息子Aの場合は、猫っ毛、天然パーマ、二重といった特徴があって、このあたりが符号する赤ちゃんは、そっくりに見える率が高い。

私との妻の間では「今日はテレビに息子Aが映っていたよ」「鈴木さんの家にも息子Aがいたよ」「息子Aは今日も出掛けてたんかいな」という、第三者が聞けば全く訳が分からない会話が日常的にされている。

息子Aは、距離を越えて瞬間移動をするのだ。

ついでにいえば、一つの家庭への帰属意識が低いノマドスタイルでもある。

 

不思議なもので、息子Aと似ている赤ちゃんたちはみんな可愛く見え、妻などはインスタで息子A似のアカウントをフォローし続けたた結果、タイムラインが疑似息子Aで埋め尽くされる状態になっているらしい。カオス。


似ているといえば、先日祖母の家に行った際に、戦後間もないころに撮影されたであろう、私の父の幼少期の写真が貼られたアルバムを見る機会があった。

すると、父の赤ちゃん時代の見た目が息子Aにそっくりなことに驚いた。

ついに息子Aは距離どころから時間の概念すら越えてしまったのだ。

 

私は想像を巡らせる。

両親が寝ている間に、布団からむくっと起き上がり、特殊能力を使って時空を越えた冒険に出ている息子A。

私たちの知らないところで異能バトルを行いながらも、両親には知られてはいけないという過酷な運命を背負った息子A。

本当は人知を遥かに超えた能力を持っているのに、普段は「ふえー」と泣いて、一般的赤ちゃんのフリをしている息子A。

そんな姿を想像して、私はふふっとなった。

 

息子Aの観察は続く。

 

風呂好きな赤ちゃんが何をしても笑うボーナスモードになった

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我が家では、息子Aを風呂に入れる役割を私が担っている。

妻が出産後に退院して、息子Aを家に迎え入れてから3ヶ月間、一日も欠かさずすべての風呂を私が担当している。

同じぐらいの年の子供がいる友人宅も、特に首が座るまではずっと旦那が風呂に入れていたといっていたので、割と一般的なことのようだ。

 

我が家では、かねてから湯船に湯を貯める習慣があまりなく、シャワーだけで風呂を済ませてしまうことが多い。

まだ首が座っていないため、取り回しに苦労するという理由もあり、息子Aを湯船につけるのも一週間に一度あるかないかといった頻度だ。

私に片手で首を支えられ、背泳のような状態で湯船に浮かぶ息子Aの姿はなかなか愛らしい。

 

それ以外の日に関しては、体がすっぽり収まるぐらいのサイズの洗濯桶に息子Aを入れて体を洗ってやっている。

湯船、洗濯桶ともに、湯に浸かっている息子Aの様子を観察していると、どうやらこの子は風呂が好きらしい。

赤ちゃんというのは、衣服やオムツを脱がせば泣き出す生き物なので、必然的に、息子Aが風呂に入る直前というのは、激しく泣き叫んでいる。

特に、この時期は家の中も寒いので、余計にツライのだろう。

しかし、湯を張った湯船もしくは洗濯桶に体をつけてやると途端に泣き止み、至福の表情すら浮かべる。

寒い部屋よりも暖かい風呂の中にいるのが嬉しいのか、浮力で体が軽くなる感覚が好きなのか。

 

その後、テンションが上がりすぎて、ジャンプするような仕草を見せることもあれば、湯につかりながらいびきをかいて寝てしまうことも多い。

場合によっては、風呂から出そうが、体を拭こうがそのまま寝続けていることもある。
警戒心ゼロ。

完全にされるがままである。


風呂の時間には、夫婦で協力して業務にあたるケースも多い。

私が風呂に入れている間に、脱ぎ散らかした息子Aの服を妻が片付け、着替えや体に塗布するボディクリームや薬類を用意する。

ミルクやおむつ替えは、どちらかが1セットを1から10までやる役割分担になっているので、夫婦のコンビネーションプレーが行われる唯一のタイミングといってもよい。

 

風呂上りの息子Aは(眠り続けていない場合は)ご機嫌なことが多いのだが、一度、こちらが何をやっても息子Aが笑ってくれるボーナスモードに突入したことがあった。

これは、マリオで言えばスターを取った状態のようなもので、私が顔を近づけるだけで息子Aは笑顔を見せ、脇腹を突っつこうものなら、むせかえるほどに喜んでいた。

私と妻は、このチャンスを逃してはならないとばかりに、これまで溜め込んでいたお蔵入り寸前のネタを惜しみなく披露した。

無反応だった不気味な絵本、白鳥を模した奇妙な踊り、漢 a.k.a GAMIのラップの物真似…そのどれもに息子Aは笑い、これまですべり倒していた数々のネタが輝きを取り戻した。

 

高揚感に包まれた私たちは、いつもより少し早い時間に消灯し、川の字になって寝た。

 

 

息子Aの観察は続く。

カメラを買っても赤ちゃんの写真を結局iphoneで撮ってしまう

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息子Aが産まれてから、写真を撮る機会が爆発的に増えた。

私は元来、写真に思い出を残したり、インスタに写真をアップしたりといったことには無頓着な人間で、息子Aが産まれるまでは、自分がこんなに写真を撮ることになるとは予想もしていなかった。

そんな私でも気付けばスマホの待ち受け画面が息子Aの写真になっているのだから、子供のもつ力は絶大である。

 

日を追うごとに何十枚、百枚と増えていく息子Aの写真をすべてスマホ内に収めようとするとメモリを食ってしまうので、Googleフォトで保存するようにしている。

パソコンの大画面で見る息子Aも、なかなかオツなものである。

また、両親や兄弟との写真共有には定番の『みてね』というアプリを使っており、スマホを買ってから間もなく、操作に慣れていない父母も積極的にコメントを残しているので、孫のもつ力も絶大である。

 

写真をより高画質で残しておきたいと思うのが親心で、息子Aが産まれて一か月ほど経ったころに、7万円程度のいわゆる高級コンデジというやつを買った。

それまではiphone7のカメラを使って息子Aを撮っていたのだが、「背景がボケた写真で撮ったらもっとかあいなるんちゃうか」と思い立ち、貯めにためたヘソクリをはたいて買った。分割3回払いで。

 

一眼レフにしなかったのは、まだ首も座っていない息子Aを撮影するには、あのバズーカみたいなナリをしたカメラは不向きだろうと思ったのと、どうせスマホかタブレットで見ることがほとんどなのだから、ボケ味の美しさといった細部までは気になるまいと思ったからだ。

とはいえ、さすがに2,3万円のデジカメだとiphoneに負ける可能性もあることは分かっていたので、上手いこと間を取って、高級コンデジという選択肢を取った。

 

ただ、表題のとおり結局iphoneでばかり息子Aの写真を撮っている。

 

理由としては、まず、息子Aが四六時中家にいることが挙げられる。

ボケ味のある写真を撮ろうにも、背景は常に見慣れた我が家のリビングや寝室であって、それがボケようがボケまいが関係ないのである。私が脱ぎ散らかした下着が転がっているような部屋を背景ボケさせても、雰囲気など出るはずもない。

たまに、息子Aにかなり接写して撮影したときには、なんかプロっぽい雰囲気の写真が出来上がるが、息子Aはデジカメのレンズ部分の出っ張りを怖がる傾向にあり、結果的に顔を真っ赤にして泣き叫んでいる写真ばかりがプロっぽい作品として残っていく。

息子Aに嫌がらせをしている変態カメラマンになったような気持ちになるので、イマイチ気乗りしないのだ。

次に、片手で持てるかどうかという違いも大きい。

いくらコンパクトデジタルカメラ、略してコンデジであるとは言え、それなりの機能性を備えた機種になってくるとスマホ並みの薄さ・軽さというわけにはいかない。

一眼レフに比べれば遥かに取り回しが利くとはいえ、膝に乗せた息子の首を片手で抱えながら、もう片方の手で操作、というのも難しい。

万が一、息子の顔や腹に落としてしまえば目も当てられない。

そして、最後の理由としては、やっぱりiphoneのカメラで撮った写真でも充分に綺麗だということだ。

こんなことをいうとカメラ好きの皆さんからはお叱りを受けそうだが、改めて高級コンデジ(お叱りを受けそうなのでメーカー名は明かさない)と、iphoneのカメラで撮った写真を見比べても、テイストの違いはあれど、どちらも充分綺麗に、私の目には映る。

ただ、そのうち息子Aが自立し、一緒に外出する機会などが増えれば、コンデジが活躍する場も増えよう。今はしばらく家で静かにしておいてもらおうかと思う。


息子Aの観察は続く。