療育diary|発達障害の息子との暮らし

発達障害グレーゾーンの息子6歳との毎日についてのこと

療育に3年通ったけど息子は健常児だった(と我が家は判断した)

私の息子はいわゆる発達障害のグレーゾーンというカテゴライズの中で生活しています。

3歳ごろに周囲からの助言もあり療育に通い出し、なんだかんだあって今はなんとか特別な困り事はなく暮らせている状態です。今回は

・「発達障害」「グレーゾーン」「定型発達(健常児)」の境目の曖昧さ
・医師や療育の先生ですら断言できないもどかしさ
・私はどういうマインドでいるのがいいという結論になったか。

みたいな話ができればと思います。

 

発達障害グレーゾーンっていう曖昧な表現

「グレーゾーン」っていう言葉は、ものすごく解釈の幅があって難しいと感じることが多くあります。私の認識だと「発達に凸凹があるものの医師から発達障害の診断がおりるレベルではない」状態のことだと思っています。

また、「診断がおりるレベルではない」という理由も二つに分かれる。それは

1.日常生活の中の困りがそれほど大きくないから
2.年齢的に伸びる可能性を考えるとまだ判断がつかないから

の二つです。

まず、2は素人の考えでいっても理屈としてはそりゃそうですよね。例えば2歳の子供が6歳や10歳のときに、何が得意で何が苦手かなんて予測は難しいです。

どちらかといえば、私たち親が悩まされるのは1の方じゃないでしょうか。

「困りがそれほど大きくない」と言っても、その中でも色々あるわけですね。

 

親の考え方ひとつで変わる発達のカテゴライズ

例えば自分の子供が何か苦手なことがあったとして、それを親が「確かに苦手だけど、人間誰しも得手不得手があるから、これも一つの個性と捉えられる」と考えられる場合もあれば「これは個性の範囲に収まらないぐらい苦手だから発達障害じゃないか」と考えられる場合。

で、特にグレーゾーンの子の場合は結局医師も、家庭がどういう方針で、子供をどうカテゴライズしてあげる方がいいと考えているのか。を、参考にしているところがあって、結局、診断を下すかどうかは親の意向次第なところもあります。

親が「うちの子の困り感が大きいから発達障害児としてサポートを受けた方が生きやすくなる」と思えばそうしてもらうし、「いや、総合的に考えれば診断なしのまま生活をする方がメリットが大きい」と考えれば、診断はおりないようにしてもらう。と言った感じ。

※ただ、このあたりは医師によっても考えが違うはずです。親の意見はあまり参考にせず、お医者さん自身の判断で診断をズバっと下す先生もいるかと思います。そう言う意味で「どの先生に診てもらうか」によってその後の運命がかなり変わるわけで、元々医療ってそんなものかもしれないけど、こと子どもの発達の分野に限れば、その後の人生への影響が大きすぎて、なんか曖昧で頼りないシステムだなと素人的には感じます。

 

子供の困り感を親がどう判断するか?心配しすぎも楽観的すぎもダメかも

あとは「自分の子供がどれぐらい困っているかどうか」が、親でも判断がつかないことがあります。

例えば、自分自身の子供時代を思い返したときに、私は友達の輪に入りづらいタイプの子供だったと思います。別に他の子と全く交流できないわけじゃないけど、休み時間もなんとなく大勢で外遊びするのが苦手で、手持ち無沙汰に机に座って過ごしたり本を読んで過ごしたり。でも、当時の自分にとってはそれが普通だったし、別に仲間外れにされてたわけでも、寂しくもなかった。

3年生ぐらいから仲の良い友達もでき、そこから狭く深い付き合いを好み、学生時代のアルバイトで色々な人との交流機会が増えて社交性が増し、大人になった今まで人間関係で特に困ったことはありません。仕事もチームで進めるタイプの仕事や、部下のマネジメントなど一通りそれなりにやってきました。

そう考えたときに、仮に友達と遊ぶより一人遊びが好きなお子さんがいたとして、別に本人は困ってないんじゃないかと思ったりもします。これが、例えば幼稚園で集団で何かしないといけないときにずっと一人だけ別の行動をしてしまうとかになると話が変わってくるわけですが、そこまで目立った困り感は表出しない。となると、これって「困ってる」になるんでしょうか?

楽観的に考えすぎてあとあと困り感が大きくなってしまう場合もあるでしょうし、悲観的に考えすぎたけど結局、健常児として普通に暮らせてます。と言うパターンもあるでしょう。結局、「答えは誰にもわからん」となってしまうわけで、このモヤモヤを抱えながら生きるのが正直しんどい!と思ったりもします。意外と子供自身はそんな心配なんて気にせずに毎日ご機嫌に暮らしてたりするんですけどね 笑

 

特定の分野や環境によって子供の困り感が変わるのも余計に複雑

グレーゾーンであれ発達障害児であれ、当然24時間365日困ってるわけではありません。

「Aと言うスキルに関してはそれほど困らない(苦手ではない)けどBと言うスキルではとても困る(めちゃくちゃ苦手)」だったり、「○○な環境では困らないけど××な環境では困る」だったり。

でも、それ以外の場合は特に困ることなく過ごせているとしたら、この子はどういうカテゴライズになるでしょうか。

 

もう少し話をイメージしやすくするために、具体例を挙げて考えてみます。例えば、コミュニケーションは問題ないけど運動面の発達が心配な子がいたとします。

体育でやるような粗大運動であれば小学生だけど、鉄棒ができないとか、片足立ちが上手にできないとか、足が遅いとか。運動会でみんなで体操をしても上手にポーズを取れなかったりしたとします。

手先を使う微細運動であれば、お箸を使ってもすぐにおかずを落としてしまったり、名札の安全ピンを止められないなどが考えられます。

この場合に、日常生活に支障が出る困りってどれでしょうか?

まず、別に足が遅かろうが鉄棒ができなかろうが、体育の成績が1でもなんも困らないですよね。だって大人になってから運動する機会なんて私もありませんから。

手先の方はどうでしょうか?こっちは、より日常生活で困り感が出やすいかもしれません。で、その際に「合理的配慮」という考えが必要になります。学校の先生と相談して、お箸が使いづらいなら補助箸でもいいとするとか、安全ピンが止められないならマグネットをつけましょう。などです。

そのぐらいの配慮さえあれば、それ以外は特に問題なく普通に暮らせるとなった場合、この子は困っている=発達障害と言えるでしょうか?まあ、実際は合理的配慮が必要なぐらい何らかの苦手があるなら、それ以外にも何か困りごとがある場合が多いのでしょうが、あくまで極端な例として挙げました。

もっと言えば、親も周囲も何も心配することなくずっと健常児として過ごしてきた子どもであっても、得意なことと苦手なことは普通あるわけです。

 

運動がめちゃくちゃ好きで少年サッカーのエースの子がいたとして、勉強はめっぽう苦手で、国語や算数の時間が毎日苦痛で仕方ない場合。

内気だけどとても仲の良い友達といつも二人組でばかり行動してる子がいたとして、授業でグループワーク的なことをする時に他の子と一言も喋れずに悪目立ちしてしまった場合。

この時も子供達は困っているはずですが、ただの個性として捉えられる、または子供自身が何かを親に伝えない限りは一生気づかれないまま終わることもあるはずです。

 

実際は健常児〜グレーゾーン〜発達障害という3つの間に無数の段階が存在する

色々とまとまりなく書きましたが、それなりの期間息子と向き合った結果、私なりに「こういうことかな」と思ったことを図を使って説明します。

まずは子供の発達のカテゴライズを3つに分けた図

 

一般的にはこう考えられると思います。でも、この3つのカテゴライズの明確な線引きって存在しないのかなと思います。つまり、

 

実際はこういうことかと。つまり、この3つの間の子も沢山存在すると。

こうなった時に、例えば左から3番目の「健常児とされてるけどグレーゾーンぎりぎり」という子供と4番目の「グレーゾーン」とされている子供の違いは、めちゃくちゃわずかな差なわけで、いつ、どんな分野を、どんな場面で、誰が見るか?によって判断が別れるはずです。

さらに言えば、左から2番目や3番目であってもグレーゾーンと考える人もいれば、4番目以降がグレーゾーンと考える人もいるはず。もはや、明確な基準なんて存在しないのだと思います。(うちの子は、この範囲かと思っています)。

 

結局は親がどう考えて生きていくか?という考えにたどり着く

例えば同じように医師の判断が必要な事柄であっても「骨折」なら明確に基準があるわけですね。骨に物理的な損傷があるとかなんとか。もしかしたら、大人のメンタルヘルスとかもそうかもですが、発達障害も本人が(家族が)どう感じるかによって、判断が変わってしまいます。

結局、それらをすべて総合すると「家庭の方針」となるわけです。え?結局お医者さんの言ってることと一緒じゃん。やっぱりお医者さんって正しい。

そこでこの投稿のタイトルに戻ると、うちの息子は療育に通ったけど、結局健常児だった。と私は解釈しています。この考え方は賛否両論あると思います。でも、うちはそう考えました。

確かに苦手なことはあります。人の話を聞いてるときに気が散りがちとか、感覚過敏気味で嫌がる生地の服があるとか。でも、息子よりももっと集中を欠きがちな子供はクラスの中にあと何人かはいる。おそらく、集団生活の中で8割ぐらいの時間は問題なくできていて、たまに困る瞬間が表出する。

その残り2割の時間を問題と感じて、特別な支援をした方がいいと考える家庭もあるとは思いますが、うちの家庭では息子のこれからの可能性に期待しようかなと思っています。やっぱり子供ってたまに親をびっくりさせてくれるような成長をする時があって。そこに過度に期待するわけではないけれど、私は息子の生きる力を信じてあげたいと思っています。

 

ネット上の当たり障りのない意見の価値って?

余談ですが、団体や企業がネットで発信するときは誤解や炎上を恐れて、当たり障りのない書き方になったり、1%しかないリスクがさも100%かのような書き方になりがちです。特に子どもの発達など医療分野に関わるような話の場合は余計にそうです。

例えばよくあるのがチェックリスト。

「偏食がある」「大きな音が嫌い」「思い通りにならないと癇癪を起こす」とかいくつかあって、当てはまったら発達障害ですとか。いや、それほとんどの子供がそうだよって言うやつ。

百歩譲ってお医者さんがそこから何かを判断するならまだしも、ただのママ向けのWebメディアとかが適当にググって適当に書いてるの見ると、PV欲しさにふざけんな。マジで潰れろって思いますね 笑 その「間違ってはないけど当てはまらない人がいっぱいいる情報」に、日本中の親がどれだけ悩まされているか。

バイバイを逆さにすると発達障害とか、あれどう言うつもりで書いてるんでしょうね?

つまり、あの手のやつはあまり真に受けなくていいと思います。専門家に相談するか、自分の判断基準を磨いた方がいいです。

 

マインドが変われば「苦手をなくす努力」から「得意を伸ばす努力」に変わって子育てが楽になる

散々迷って今の考えになってからは、息子をどう育てればいいのかの考えが変わったように思います。

つまり、療育でどう発達支援をするかを考えていた頃は「息子の苦手をどうなくせるのか?」に注力していました。ほとんどの療育ってそういう場所だからです。

でも、今は「得意なことや好きなことをどう伸ばしてあげられるか」を考えています。小学校入学後は放課後等デイサービスには通わせず、通常の習い事の中で息子の成長につながりそうなこと、あるいは息子の得意や好きを伸ばしてあげることをできたらと思っています。

もちろん、これから今よりも困り感が大きくなれば、その考えはアップデートすべきという心の準備はしておきつつですが、今の気分はそんな感じです。

うちの家庭の方針が正しいのかどうかはわかりませんが、同じような状況のご家庭に何か参考になればいいと思います。