療育diary|発達障害の息子との暮らし

発達障害グレーゾーンの息子6歳との毎日についてのこと

ミルクを飲んでいる赤ちゃんの表情が必死すぎる

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我が家は粉ミルク8:母乳2ぐらいで息子Aを育てている。

妻としては、母乳がもっと出ればと悩んだこともあったようで、確かに経済的にもそっちの方が助かるのは事実だけれど、まあ私としては粉ミルクを日夜研究している企業の努力を信頼しており、ミルク育児中心であることを特に気にしてもおらず、幸いにして両家の両親も同様だ。

実際に、私や兄が完全ミルク、いわゆる完ミで育ったけれど、幼少期から大きな病気一つせずに健康優良児として育ったので、母乳の方がいいと言われても、ビタイチぴんとこない。

半分は諦めもあったのだと思うけれど、妻も最近はミルク育児に対して特にネガティブな気持ちは持っていないようだ。「母乳はおやつ」という比喩的表現をしていたが、まあ本人も息子もそれで満足そうなのでよしとする。

 

 

ミルク育児でよかったなと思う点が、私が息子Aと触れ合う時間が増えることだ。

同時に、私がミルクを担当する際は、妻が自分のやりたいことに時間を使えるので、多少のストレス解放になっているのではないかと思う。

なので、平日に仕事から帰宅してから寝るまでの2,3回は、基本的に私がミルク担当だ。土日に関しても、妻と半々ぐらいであげている。必然、私が息子Aを膝に乗せて触れ合う時間が増える。

別にミルクをあげている間、ずっと息子Aと見つめ合っているわけではなく、適当にテレビを見たりしながらやっているのだが、口からこぼしたミルクを拭き取ってやらないといけないので、さすがによそ見しっぱなしという訳にもいかず、ミルクを飲んでいる息子Aの顔をじっと観察することもしばしばだ。

 

ミルクを飲んでいるときの赤ちゃんを一言で表すならば「必死」である。

それまで「ミルクを飲ませろー!」というシュプレヒコールがごとく、抗議デモ泣きを見せていたにも関わらず、口元に哺乳瓶を近づけると、一瞬で泣き止んで哺乳瓶の乳首にむしゃぶりつく。乳首にむしゃぶりつくというと、何か別の意味を想像してしまうのは私の心が汚れているからに違いない。 

特に腹が減っているときの形相が凄まじく、目を血走らせながら、哺乳瓶に恨みでもあるんかというぐらいの力で強く噛み、なんなら乳首部分がへこんでミルクが詰まっていることにも気づかず、ミルクを吸い込み続ける。

勢いが強すぎてミルクを口からこぼそうがお構いなしで、とにかく必死で哺乳瓶を吸う。

時として、ミルクを一気に吸いすぎてむせたり、噴水のように盛大に吐き戻したりもすが、少し咳き込んだらまたすぐ必死に吸う。その様子は、さながら飲み会でハメを外した若手社員がトイレに吐きにいって、席に戻るやいなや一気飲みをするような無鉄砲さを感じさせる。

 

生後3カ月弱の息子Aには、一回160mgの粉ミルクを3,4時間おきぐらいで飲ませているが、大体100mgぐらい飲んだ時点で目がトロンとしてくる。

ミルクを飲む直前まで抗議デモを起こしていることが多いので、体が疲れているのかもしれないし、満腹に近づいて眠気に襲われるのかもしれない。ちなみに、いつも「襲われる」という物騒な表現とセットで使われる「眠気」は不憫だと思う。

 

ミルクを飲む→そのまま寝るというのが、息子Aの王道パターンで、こいつはなんて能天気なやつなんだと思うが、赤ちゃんってそういうものらしい。すでにミルクを飲み終わって、口から哺乳瓶が離れているのに、まだ口で吸おうとしている寝ぼけ仕草などは、かわいらしくてしょうがない。

 

これが逆のパターンもあって、つまり夜中などに息子Aが寝ているときに、ミルクの間隔が空きすぎないように、起こしてから飲ませる場合だ。

普段は静かにしておいてほしいときに限って泣き止まないくせに、逆に起きてほしいときには深い眠りから覚めないのが息子Aで、足をこそばそうが、オムツを替えようが、すやすやと眠っている。

そんなときは、ええいままよ、と口に哺乳瓶を持っていくのだけど、これが意外と飲むのである。完全に寝ていて、目を覚ましていないはずなのに、寝ながらミルクを飲んでいるのだ。

本能がそうさせるのか、深く眠りこんでいるように見えて意識はハッキリしているのか、目を閉じきった状態できっちりと分量を飲み干すのだから、息子Aの食欲には感服する。

 

赤ちゃんというのは見ていても飽きないものだ。産まれてから毎日ミルクをあげていても、まだまだミルクを飲む姿は観察のしがいがあると感じるのであった。

 

息子Aの観察は続く。

泣く赤ちゃんを笑わすためには、一度、無に返さなければならない

笑う赤ちゃん

息子Aは生まれて3カ月ほどになるが、最近よく笑う。

生後2カ月ぐらいまでは、この世の悲しみをすべて背負っているのではないかというぐらい陰鬱な表情を常に浮かべていたのだけど、最近は、何か楽しいことがあると「はふーん」と力の抜けた声を出しながら喜びの表情を浮かべるようになった。

 

また、こちらをじっと見ることも増えてきた。

生後間もないころは、常に虚空を見つめ続けていたのだけど、最近は少しずつ目が見えてきたのか、私や妻の顔をじっと見つめたり、目で追いかけてくることが多い。

 

それまでは、私が歌おうが踊ろうが息子Aの反応は芳しくなく、ハイテンションになっているこちらがスベったような空気になり、気恥ずかしくなることが多かったのだけど、「ボケに対して反応がある」ということが、こんなにも嬉しいことなのか、と実感する日々である。

 

泣いた赤ちゃんに有効な手段=DAKKO

ただ、息子Aが一度泣いてしまうと、そこから笑いに繋げるのはいささか困難になる。

私の観察によると、息子Aの精神状態には、泣く→無(む)→笑うの三段階があって、一度「泣く」になってしまったら「無」を経ないと「笑う」の境地には至らない(ただし、逆に「笑う」から「泣く」へ一足飛びに到達することはあるのだから理不尽なものである)。

 

泣いた息子Aを無に返すために最も有効な手段は、当然ながらDAKKOである。

特に息子Aが好むのは縦DAKKOだ。

通常のDAKKOをしても、息子Aはイヤンイヤンをするように体をねじらせながら泣き続け、始末に負えなくなることが多い。

縦DAKKOをすれば、それまでむせび泣いていた息子Aが急にしおらしくなって、こちらに体を預けてくるのが、なんとも愛らしい。ただ、最近は息子Aの顔に乳児湿疹が現れているのだが、体を預けるついでとばかりに、私の上着の布地に顔をこすりつけて、顔を掻こうとするあたり、もしかしたらコイツは甘えているフリをして、ただ顔がかゆいだけなんじゃないかという疑念も捨てきれない。

 

妻の場合は、今一つ縦DAKKOの要領が得られないようで、必然的にギャンギャンと泣き続ける状態、略してギャン泣き時の息子Aを無に返す役割は、父である私に委ねられることが多い。

私があやした方が早いからといって、息子Aを泣き止ませる技術を磨かずして、泣いたら即、私に任せるという妻の姿勢はどうかと思うが、普段私が仕事に出ている間、妻が息子Aの面倒を見てくれている手前、そうも言えん。

 

赤ちゃんを笑かすいくつかの方法

10分ほど縦DAKKOをして、息子Aが無の状態になると、そこからようやく笑かしにかかることができる態勢になる。

息子Aを笑わせるための手段はいくつかあって

 

  • 私が「ふーー」などと奇声を発しながら、息子Aの首・ほっぺた・耳などを撫でる
  • 私が「パタパター」などと奇声を発しながら、息子Aの両手を鳥の翼のようにはばたかせる
  • 私が「ツンツンツーン」などと奇声を発しながら、息子Aの脇腹のあたりを突っつく
  • 私が「プルプルーン」などと奇声を発しながら、息子Aの両足を上下左右に動かす

 

といったあたりが、定番だ。

お分かりのように、基本的に私は奇声を発している。

 

キリンのソフィーで喜ぶ息子A

また、飛び道具的におもちゃを使用することもある。

フランスに住んでいる知人から、お腹のあたりを握れば「ぴっぷー」という音が鳴る、ソフィーというキリンの人形をお祝いにもらった。

なんでも、フランスの赤ちゃんは皆これを持たされるらしいのだが、私はあまり詳しくないので分からん。

 

Vulli キリンのソフィー 18cm

 

息子Aはこのソフィーが大のお気に入りのようで、私が目の前にソフィーを持ってきて「ぴっぷー」と鳴らせば、ぱっと顔が明るくなり、ソフィーでほっぺたを突っつきながら「ぴっぷぴっぷぴっぷー」と鳴らせば、「はふーん」という、例の力の抜けた笑い声を出す。

ソフィーの威力は絶大で、これを使えばほぼ100発100中で息子Aは喜ぶ。

実は最初に見たときは内心気にくわなかった、ソフィーの人を見下したような笑顔も、よくよく見れば「僕の手にかかれば赤ちゃんを泣きやませるなんて簡単さ」という、余裕の表れのように感じられるのだから、人の心というのは勝手なものだ。

 

必死なソフィーと泣きの赤ちゃん

ただ、そんなソフィーをもってしても、「泣き」状態の息子Aを一気に「笑い」に変えることは難しい。

ソフィーならばと思い、何度か試みたことがあったのだが、ギャン泣きする息子Aに対して「ぴっぷ!ぴっぷ!ぴっぷ!ぴっぷ!」と音を鳴らし続けるソフィーは、それまでの余裕の欠片すらも感じさせず、なんだか必死さが顔ににじみ出ているようにすら見える。人の心というのは勝手なものだ。

 

泣くのが赤ちゃんの仕事、とはよく言ったものだが、どうせなら泣くよりも笑っている時間を少しでも多く過ごしてもらいたいものである。

 

息子Aの観察は続く。